新・冬季五輪の記憶(2) 女子フィギュアで初めてメダルを獲った日本人

昨年引退した浅田真央のソチ五輪は6位で幕を閉じた。 

五輪で6位というとこの人の名前を思い出す。  

渡部絵美 「わたべ」ではなく「わたなべ」と読む。  

渡部絵美さんといっても若い人は現役時代のことを知らず、元フィギュアスケート選手のタレントくらいにしか見られていないかもしれない。 

1972年から1979年まで全日本選手権では8連覇。 

ウィーンで開催された1979年の世界フィギュアでは、日本人女子として初めて銅メダルを獲得した実績を持つ。 (1997年東京開催の世界フィギュアでの佐野稔氏の銅メダルが、男女を含めての最初のメダル。) 

日本人の父親とフィリピン人の母親を持ち、高校はアメリカ、大学は上智大学比較文化学部(当時)に進学、(後に専修大に編入)した、バイリンガルというよりも英語の方が、得意な選手だった。 

当時の冬季五輪は、夏季五輪と同じ年に開催され、規模は今よりも遥かに小さく、冬季五輪が閉幕すると夏季五輪が話題になる、そんな時代だった。 

札幌五輪のジャンプでメダルを独占した日本だったが、76年インスブルック五輪では、全競技を通じてメダルはおろか入賞者はゼロ(当時の入賞は6位まで)。 

冬季五輪は、メダル候補がひとりいるかどうか、というのが日本選手団の常だった。 

渡部絵美が気の毒だったのは、レークプラシッド五輪の前年、79年のウィーンで開催された世界選手権で銅メダルを獲得したこと。 

一躍数少ないメダル候補としてマスコミの注目に晒されたことだ。 

 レークプラシッド五輪、女子は3回転ジャンプの幕開けともいえる大会だった。 

当時まだあった規定演技でペッチ、フラチアニ、ルルツに次いで4位。 

SPでは4位を確保はしたものの上位との左は大きく広がった。 

フリー演技はNHKも生中継した。 

レークプラシッド五輪では、北海道を除いて八木弘和が銀メダルを獲った70m級ジャンプも生中継はしていない。 

それくらい日本中が注目していたということだ。 

フリーで渡部は、トリプルサルコーを決め、でき得る最高の演技をした。 

が、ペッチ、ルルツ、フラチアニの上位選手が後から演技をし、抜かれていく。 

最終演技者はスイスの新鋭のデニス・ビールマン。 

今もビールマンスピンに名前を残すビールマンが4位に滑り込み、渡部は6位に終わった。  

その後日本のフィギュア界は、1988年に天才と呼ばれた伊藤みどりが女子で初めてのトリプルアクセルを成功させ、世界のトップに躍り出た。 

1988年カルガリー五輪は5位に終わるも、1989年のパリで開催された世界選手権で優勝。 

ヨーロッパの記者は「日本人選手がヨーロッパで開催された世界選手権で金メダルを獲ったことは非常に異議深い」と称えた。 

伊藤は1992年アルベールビル五輪で、日系米国人クリスティ・ヤマグチに敗れはしたものの、銀メダルを獲得。 

日本フィギュア界の悲願を達成するのである。  

話は戻るが、渡部絵美が6位に入ったレークプラシッド五輪の女子フィギュアに申恵淑(シン•ヘスクという名前の22歳の韓国人の選手がいた。 

結果は20位(参加22人) 劣悪だった韓国のフィギュアの環境を離れ、専修大学に留学し、渡部と同窓となっていたが、若くして選手は引退、1984年からフィギュアのコーチを務めている。 

金妍児(キム・ヨナ)も小学校4年から3年間申恵淑に教えを請い、ブライアン・オーサーと決別してから、再び彼女に付いた。 

▲日本女子の五輪での順位(10位以内) 1968年の大川久美子は現姓佐藤⇒佐藤久美子コーチ

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